スポーツ食育インタビュー

今回は、2004年アテネ、2008年北京、2012年ロンドンの3大会連続でパラリンピック出場を果たした射撃(しゃげき)選手であり、現在は日本郵船株式会社広報グループ社会貢献(こうけん)チームに所属している田口亜希さんに、幼少期から選手時代、そして現在までの食生活や生活習慣についてお話をうかがいました。

母の愛情あふれる厳しい指導で好ききらいがなくなった

「幼いころの食事で好ききらいはありましたか?」

「子どもなので、ニンジンが好きじゃない、などはありました。グリーンピースは小さいころは好きだったらしく何にでも入れて欲しいと頼んでいたら、食べ過ぎたようで、物心ついたときはきらいになっていました(笑)。」

「そういうことはありますよね。」

「好ききらいがあっても、給食も家でも食べさせられましたね。母からは、作ってもらったものは好ききらいなく食べなさいと言われ、無理してでも食べていました。お弁当によく前夜の残り物が入っていて、きらいなものを食べずに持ち帰ると母に見つかっては食べさせられていましたね。わざと落としても、母はそれを拾い水で洗って戻す。今の教育とは違い“食べなくて良い”という選択肢はなく、残すことは許されませんでした。」

「その教育について、今はどう思っていますか?」

「子どもが好ききらいをする理由は、見た目とか味の苦さとかがあるんでしょうけど、母のように無理にでも食べさせることによって、あるとき急にイヤじゃなくなったり、いつの間にか好きになってたりするのかなと思います。母は子どもにわからなくするためにニンジンを細かく切る、ということもしませんでした。」

「嫌いな食べ物を細かく刻んで、分からないようにして食べさせるということは、一つの方法としてなさる方もいらっしゃいますが、私はあまり賛成しません。もちろん、そのことで“栄養的”には良いところもあるかもしれませんが、“栄養的なこと”でしたら何か代替品を使うことで十分間に合います。私は、分からないようにして食べさせることよりも、自分で栄養的に似ているものを選び代用しながら、少しずつでも食べられるように努力していく方が根本的な解決になると思っています。」

「そんなことをしていたらいつまでもきらいなままだから、と頻繁(ひんぱん)に食べさせられてきたので、今も好んでは食べませんが、出されたら食べられます。ずっと避(さ)けていたら、食べられないままでいたかもしれませんね。あるときからミョウガなど大人の味が好きになることもありますからね。」

「大人になってそう思うということは、“愛のある厳しさ”だった良い例だと思います。」

「子どものころは食が細く、母に「食事を残さず食べられるの?」と注意されつつ祖父母にジュースをもらって飲んで、結局夕食が食べられなくなる。「そうなるとわかってるのに我慢しなかったのはあなたでしょ?」と言われ残すことは絶対許されなかったので、泣く泣く食べていました。いまだに夕食前に小腹が空いていても、「今間食したら夕飯が食べられないかも!ご飯残しちゃうかも?」とトラウマ(?)と罪悪感が出て、ストップがかかります。」

「すごくいいと思います。それができていないことが、昨今のフードロス問題にもつながっていますよね。また、家庭だからこそ“いつ”、“何を”食べることが良いのかという『食べるタイミング』を習得出来る機会にもつながると思います。」

「母もそれなりに栄養バランスは考えてくれていたので、ある程度の栄養は摂れていたかなとは思います。」

「“栄養バランス”は本当に大事なことです。そして、それを私たち栄養士が伝えるのではなく、それぞれのご家庭で、“おうちの味”とか“風習”をお子さん方の好みと合わせて、お母さまが考え、伝えていくことが一番だと思います。」

「確かにおっしゃる通り、今はそこまで好ききらいがありませんし、試合先でも問題なく食べてこられました。」

「海外遠征で食べるものが何もなかった、なんてことをおっしゃる方いますよね。でも小さい時に身につけた“食べる力”って、そういう時にも発揮されると思います。」

「選手村ではビュッフェ形式になっていて、今でこそ各競技に専門の栄養士がついたりしていますが、私が最初に出場したときにはいませんでした。なんとなく自分でバランスを考え、肉や野菜をかたよりなく食べようとはしていました。
子どもの時に親や先生たちから残さずしっかり食べるように言われてきたことは、ある程度正しかったように思います。母はあまり子どもに合わせることはせず、祖父母も子どもが好きそうなハンバーグを出すことなどはせず、自分たちが普段食べる煮魚を出すといった食事でしたので。」

「世界では『和食』が注目され、昔からの日本の食事がスポーツ栄養学的にも実は優れたものだと評価を受けている一方で、日本では逆に子どもの好きなメニューが家庭のメニューの中心になってきているなかで、それはすごいことだと思います。」
※農林水産省が、ユネスコ無形文化遺産に登録申請した際に定めた「和食」の定義には、以下のようなものが言われています。
①多彩で新鮮な食材とその持ち味の尊重、②栄養バランスに優れた健康的な食生活、③自然の美しさや季節の移ろいの表現など

「もちろん食は楽しむためでもあるけど、やっぱり生きるためとか、出されたものをちゃんと食べる、ロスをしないという部分は家庭で習ったのかもしれないですね。」

体を動かすのが好きだった子ども時代。負けず嫌いな末っ子タイプ

「今までどんなスポーツをしてきましたか?」

「木に登ったり公園で遊んだりと体を動かすのは好きでしたが、スポーツが得意ではありませんでした。夏休みには学校のプールで泳ぐのが好きで、毎日真っ黒になって通っていましたが、速くもうまくもなく。母は「うちの家系に運動神経の良い子はいない」と言いつつ、「子どもは力を持て余しているから、よく運動をして発散させて疲れさせる方が良い」と週末には家族でよく山登りに行きました。
小学校時代は日本舞踊をやり、剣道部に入っていました。中学はテニス部、高校ではバスケット部。体育は好きでどれも楽しくやっていましたが、足が遅く上手ではなかったです。」

「そして、小さい時に特別の競技や固定した種目ではなく、いろんなことをなさったのが射撃に関しても良い経験になられたのでは。」

「水泳は全身運動だから良いようですね。アスリートには小さいころ水泳もやっていた選手が多いですね。」

「幼いころから色々な運動をしていると可動域が広がると言いますね。小中学校の時の夢は何でしたか?」

「「早く結婚して子どもを産み、若いお母さんになって幸せな家庭を作りたい!」と思っていて、何になりたいとかはありませんでした。3姉妹の末っ子で、人の後ろをついていくタイプ。でも姉たちに「一番怖いのは亜希だ」と言われ、母にも小さいころから負けずぎらいだった、と言われます。」

「末っ子って、意外と負けず嫌いな方が多いですよね。」

「一番小さいというだけでぞんざいに扱われて理不尽に思い、負けん気が出るのかもしれませんね。でも負けずぎらいな割に、そんな努力はしてこなかったと思います。」

「末っ子の方はそういう秘めたる闘志があるような気がします。

母から教えられたことが、一人暮らしの食事に活きた

「高校以降の進路はどのように決められましたか?」

「高校1年の夏休みに、英語がまだろくに喋れないまま短期留学プログラムでオレゴンにホームステイしました。ホストマザーが国語の先生、ホストファーザーが医者で、私のつたない英語を根気よく聞いてくれました。わからない言葉は私が辞書で調べるまで待っていて、私が理解できないと丁寧(ていねい)に教えてくれる。すごく温かく接していただき、楽しく過ごしていました。ところが1週間後、ホストファミリーの娘2人がキャンプから帰宅。子どもは普通のスピードで喋るので、私が理解できずにいると、「あぁもういい!」と待ってくれない。それにすごく傷つき、できない自分に落ち込みました。帰国して、もっとコミュニケーションが取りたかったという後悔から英語を猛勉強し、大学も英語学科に進学しました。英語を使い、人とゆっくり接することができる仕事がしたいと考えていたころ、父の仕事の関係で客船に乗りました。それで大型客船ならお客様と長時間共に過ごせて、海外にも行き英語も使えると思い、豪華客船で就航したばかりの“飛鳥”の入社試験を受けて採用されました。」

「情熱が面接官に伝わったのですね。」

「当初は地方の採用は可能性がなかったようですが、熱意が伝わりました。入社後、もちろん仕事なので、乗船すると3、4ヶ月1日も休みがなかったりとしんどいこともありましたが、港に着いてシフト以外だと自由に外出ができます。良い出会いがたくさんあり、乗組員とも寝食共にして家族のような関係になれました。仕事はつらくても仲間に恵まれて支えられ、みんなが一緒の方を向いて頑張っているので乗り越えられました。」

「上京して一人暮らしをしていたときは、食事はどうしていましたか?」

「料理は以前から好きでした。子どものころから娘3人、母が料理をしているのを見て、餃子を包むなど手伝っていました。小学1、2年のころから母がアジやイワシの頭をさばいているのを見てやりたがり、包丁を使わせてもらって手を入れて骨を取ったりしていましたね。お皿が割れることも教えられ、割っても良いからと洗い物もしていました。3姉妹みんな料理を作るのは好きです。でも、母も含めて掃除・片付けが苦手です…(笑)。」

「食事のあらゆる大切なことを、幼少期にお母様から教わっていたのですね。」

「そうかもしれないですね。母は料理が得意でしたが、栄養バランスなどは1週間単位で摂れれば良い、くらいにしか考えていなかったと思います。肉ばかり並んでいるときもあれば、野菜が主のときもありましたし。」

「栄養のバランスが整わなかったときにも 3日程度で相殺できれば大丈夫とお考えいただければ…と思います。もちろん大事な試合前など、そうもいかないときもありますが、選手にも栄養バランスがうまく摂れなかったり外食が重なる日があってもたまには良いのでは、と言っています。第一は食べる事が楽しみにつながらないと。」

「外食を選ぶ力」が求められている

「選手時代にこういう食事が必要だったなど、食事について思ったことはありますか?」

「体を使うだけでなく脳も使う競技ですが、最初の頃は何が必要だとか、何時間前に食べたらいいかとか、本当にわからなかったですね。
射撃の場合は本選で60発を撃って、1~2時間後にもうファイナルがあるんですが、その間に何をどうすればいいかわかららなかった。最初は緊張で食べずに試合に臨み、失敗してからはゼリー飲料などを食べていました。今は定期的に栄養士に見てもらっているので、選手は自ら聞いてできていると思います。
合宿など辺鄙(へんぴ)な射撃場で食事をちゃんと作ってもらえる環境がないとなると、コンビニで買って食べる場合があります。外食でも食べ方があるので、限られた中で何を食べたら良いか、なども教えてほしい。選手がコンビニや自宅でどんなものを食べればよいのかなど、日常の食事で自身で考える力が大切ではと思います。」

「おっしゃる通りです。それを選手や指導者も含めてみんなで考えてくれたら、一番いいと思います。こうあるべきみたいな理想形だけではなく、コンビニやファミレスなど、限られた環境の中でもより良い選択をできる力が、基本的には大事だと思います。よく選手たちに「まずコンビニありき!と言うわけではないですが、もしコンビニで買うとしたらこんなものをどうぞ! もちろん、100%理想形じゃないけれど、限られた環境の中で選ぶものは何かを考えられることも大事!」を伝えています。カレーパンとあんぱんだったら、“あんぱん”でしょう、みたいな。そういう選択する力は、普段の心がけで身につくと思いますので、私も同感です。」

取材日:2018年12月21日

選手&チームのご紹介

田口 亜希さん

大阪生まれ。
大学卒業後、郵船クルーズに入社。客船「飛鳥」にパーサーとして勤務し、世界中を航海。
25歳のときに脊髄(せきずい)の血管の病気を発症し、車いす生活になる。
退院後、リハビリ中に出会った友人の誘いでビームライフル(光線銃)射撃を始め、その後実弾を使用するライフル射撃(エアーライフル銃、22口径火薬ライフル銃、)に転向。
アテネ、北京、ロンドンと3大会連続でパラリンピックに出場。アテネでは7位、北京では8位に入賞。2010年アジアパラ競技大会3位銅メダル獲得。
現在は日本郵船(株)広報グループに勤務。
また、2020年東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会アスリート委員、エンブレム選考委員、ブランドアドバイザー、マスコット審査会委員等を務める。
他に、スポーツ庁スポーツ審議会スポーツ基本計画部会委員、世界パラ射撃連盟の選手代表、特定非営利活動法人日本障害者スポーツ射撃連盟理事、一般社団法人日本パラリンピアンズ協会理事、公益財団法人笹川スポーツ財団理事、日本財団ボランティアサポートセンター理事を務める。