小学2年生でバレーボールをはじめ、18歳で全日本入り。唯一の高校生プレーヤーとして世界選手権・釜山(ぷさん)アジア大会に出場し、注目を集めた大山加奈さん。2004年には、アテネオリンピックに出場。2010年に現役引退後は、イベントやTVレポーターとして活やく中の大山さんに、子どものときの食生活やきびしい練習、そして日本代表としての苦労など、さまざまなお話をうかがいました!
編集部:「まずは、バレーボールを始めたキッカケから教えてください。」
大山さん:「子どものころは喘息(ぜんそく)の持病があり、体が弱かったんです。だからいつも家の中で遊んでいて、外を走り回るなんていうことは、ほとんどなかった。
でもあるとき、バレーボールの練習を見学に行ったら、そこにいる子どもたちが、すっごくキラキラして見えた。『私も、この中に入りたい!』と思い、そこからバレーボールを始めたんです。住んでいたのは東京の小岩というところで、地域的にバレーボールが盛んだったんですね。」
ひさこ先生:「そのころから、お背が高かったの?」
大山さん:「同年代の子よりも、頭1つ以上高かったですね。でもチームに入った当初は、喘息の発作が出てしまい練習を休むことも多かった。でもよく年、一つ下の妹が同じチームに入ってきた。妹は私と正反対で、体がじょうぶだし、活発で気が強い。どんどん上手になる妹の姿を見て『お姉ちゃんなんだから、私もがんばらなくちゃ!』と。そこからは練習を休まなくなり、試合にも出場できるようになりました。」
編集部:「バレーボール選手になろうと決めたのも、そのころですか?」
大山さん:「そうです。小6で全国大会で優勝して、そのときはちょうとアトランタオリンピックの年だったのですが、表彰式でメダルをかけてくれたのが、当時全日本のエースだった大林素子さんだったんです。彼女が『全日本に来てね』と言ってくれて、そのときから『絶対に全日本に入ってオリンピックに出る!』と決意しました。」
編集部:「小さい時から背が高いと、やはりたくさんご飯を食べていらっしゃいましたか?」
大山さん:「小2で140cm、小6で175cmあったので、食べる量は大人並みでした。」
編集部:「好ききらいはありましたか?」
大山さん:「ありました! レバーとかナスとか・・・。でも母が『どんなものでも、残さずに食べなさい!』という教育方針だったので、ガマンして食べてました。」
ひさこ先生:「きらいなものは、どうやって召し上がっていたの?」
大山さん:「きざんだりして気づかないように食べるより、そのままの食材を食べられるようにというのが母の方針だったので、焼きナスだったり、レバーのからあげだったり。イヤイヤなのですごく時間がかかったのですが、それでも最後まで食べきってましたね。」
ひさこ先生:「素晴らしいわ! 私も、きらいな食材を気づかないように食べさせるよりは、大山さんのお母さまのように、そのままの形で食べられる方が、将来的にもいいと思います。今は、子どものきらいなものは食卓に出さないというご家庭も多い中、大山さんのお母さまはしっかりしていらしたのね。」
編集部:「朝ごはんは、どんなメニューが多かったですか?」
大山さん:「和食が多かったかな。時々は、パンのときもありましたけど。卵かけごはんが大好きで、よく食べてました。」
ひさこ先生:「運動の前には、やっぱり炭水化物ね(笑)。」
大山さん:「はい(笑)。お弁当はおにぎりでした。本当にご飯が大好きで、あるとき試合の休み時間に、おにぎり9個食べたこともあります。」
編集部:「そんなに! ちなみに具は、何がお好きですか?」
大山さん:「明太子が一番好き。おかずの中で好きだったのは、やっぱりトリの唐揚げかな。」