スポーツ食育インタビュー

今回は管理栄養士・健康運動指導士の松峯敏和さんにお話をうかがいました。リオ・オリンピック、パラリンピックで日本選手に向けたハイパフォーマンスサポート・センターで調理を担当していた松峯さんは、実はひさこ先生の「教え子」でもあります。松峯さんが栄養に興味を持つキッカケは、一体何だったのでしょうか?

体重を増やすためにたくさん食べた中学時代

「子どものころは、好ききらいはありましたか?」

「あまりなかったと記憶しています。母親が色々な料理を作ってくれました。煮野菜中心の煮物が多く、揚げ物は少なかったです。実家は奈良の片田舎で、家庭菜園もしていて野菜はたくさんあったので、それを使った料理をパクパク食べてましたね。一人ワンプレートではなく、大皿でバーンと出てきたものを、それぞれ好きなだけ取って食べるスタイルでした。」

「何かスポーツをしていましたか?」

「小2ぐらいから中学卒業まで、ずっと柔道をやっていました。だからよく食べていたと思います。特に中学時は『とりあえず体重を増やせ』と言われ、ひたすら食べていましたね。」

「柔道は、階級によって体重制限が厳しいのではありませんか?」

「それはありますが、中学校の時の顧問(こもん)は『増やすのはいいが減らすのはダメ。増えたらその上の階級に行けば良い』という考えの方でした。そのころの身長は150cmくらいで体重は今と変わらないほどあり、1日3食ではなくその倍は食べていたと思います。親は料理が得意で、私も小さいころから手伝っていました。お腹が空いたら自分で冷蔵庫から材料を引っ張り出し、焼いたり、何かを乗せてトーストしたり。その時から食というか、調理面に関してすごい興味があり、知らず知らずのうちにやっていました。」

「給食も、好ききらいなく食べていましたか?」

「給食は人一倍食べてましたね。早く食べて、おかわりに並んで。色々なものをかたよりなく食べていて、苦手な物はなかったです。」

「奈良の名物だと、柿の葉寿司とか素麺(そうめん)もお好きでしたか?」

「柿の葉寿司は小さいころから食べていましたね。中でもサバが一番好きでした。三輪そうめんも、母親の実家が作っている地域だったのもあり、一年中食べていました。上京して一人暮らししても、素麺は箱で食べきれないほど送られて来ます。」

自分でお弁当を作っていた中学生時代。おやつはお菓子じゃなく、おにぎり!

「柔道部時代のお弁当は、何を食べていましたか?」

「柔道は、小学校の時はスポーツ少年団で、中学は部活でやってました。中学の時は給食がなくお弁当だったので母親に作ってもらっていましたが、ある時から自分で作って行くよう言われて。なぜか父親が『玉子焼きの卵は1個しか使っちゃダメだ』と(笑)。1個だと薄くて巻きづらいなと思いつつ…お弁当作ってましたね。料理をすると、今でもそのときの事を思い出すことがあります。」

「中学生で?すごい! 昔は卵は1日1個までって言われていましたね。それからずっと毎日自分で作っていたの?」

「週に2、3回は絶対作ってたような。作ったと言っても、おかずは夕食の残りを取っておき、朝に玉子焼きなどを自分で作り、ごはんを弁当箱に詰めるくらいですが。」

「成長期で食欲旺盛な時期ですよね。補食も食べていましたか?」

「お弁当箱は結構大きかったと思います。補食は家にあるもので、お菓子じゃなく、おにぎりとかでした。親が菓子をあまり買ってこなかったので家になく、小さいときにお菓子を食べた記憶があまりありませんね。地元は奈良県ですが、柔道で呼ばれて三重県の中学校に通っていて、買い食いは禁止。おそらく、お弁当に追加のおにぎりを持参して通学してたような気がします。」

「本格的に柔道をやっていたのですね。高校では続けなかったのですか?」

「少年団で柔道をしていた時のメンバーが大柄の粒ぞろいで、一緒に三重県の中学へ行き全国大会にも出場しました。でも中学生になり成長期で体格の差が出てきて、なかなか勝てない。それもあって柔道には限界を感じ、高校からは地元の奈良に戻りフィールドホッケー、大学では野球をしました。」

「団体スポーツに興味があったのですか?」

「興味は少なからずありました。柔道をやめて他の競技をするなら、団体スポーツしか考えてなかったですね。」

「個人スポーツは、精神面でかなりタフさが求められるイメージですね。」

「柔道を途中であきらめたのは、そこに苦労した部分もあったのかもしれないです。それに野球やホッケーのように、みんなで勝利に向かって頑張る団体競技を経験してみたかったんです。」

無理な減量がキッカケで体調を崩し、栄養に興味を持った

「高校生の頃の夢は何でしたか? どのような職業につきたいと思っていましたか?」

「まだ栄養士になりたいとは思っておらず、どちらかというとトレーナーとかでスポーツに関わりたい気持ちはすごくありました。中学時に柔道で全国大会に出場した時は、トップクラスにすごく憧れ、運が良ければ自分もなりたいと思っていました。でも実際は競技も変えて上を目指すのは難しくなり、それならサポートに回って、一緒に上を目指したいと思い始めました。」

「栄養士になりたいと思ったキッカケを教えてください。」

「中学で柔道をしていたころ、体重を落とす時は絶食か、とりあえず動いて落とせという指示でやっていました。その時は栄養の知識が全くなく、食べなければ落ちるという考えしかできなかった。高校でフィールドホッケーを始めたとき、体が重すぎて走れなかったんです。身長が低いのにすごい大柄で、走ると体に負担がかかりました。顧問からは『とにかくやせろ!』と言われ、高1の時の減量で、ひどい体験をしました。それがキッカケで栄養面に興味を持ち、栄養士を目指そうと思うようになったんです。」

「無理な減量では、体力やパフォーマンスが下がると実感したからですか?」

「もちろんそうですね。1日何十kmと走って食べずにいると、体重はみるみる落ちていきました。そうなると、体重が落ちるのが快感になってきて。1年で25kgやせたら、完全に人が変わっちゃっいました。そのうちに食べられなくなり、ついに拒食症みたいになっていました。」

「10代半ばから成長期真っ最中、最後の成長期の大事な時の話よね?」

「そうですね。身長が伸びなかったのも、そのせいかと思っています。1日で3~4kg落ちました。夏はほぼ汗ですが、それでも体重が落ちるのは嬉しかった。そのころはもう今と変わらないくらいの身長でしたが、50kg位まで落ちてガリガリになりました。脂肪はもちろん筋肉も落ちていって、本当に骨と皮だけの状態。1日ほぼ何も食べず、炭水化物もごはん1口。お腹が空いたら水を飲んでしのぐ感じ。その時の写真を見ると、細くて枝みたいな腕でした。でもその時は異常だと全然気付かず、体重を落とす喜びにハマっていたんですね。」

「パフォーマンスが下がった事は、自分でも気づいていましたか? 何か体に悪影響や変化はありましたか?」

「パフォーマンスはすごく下がりました。競技は続けていましたが、そんなに結果は残せてなかったと思います。一時期は体脂肪が4%くらいになって、すぐに風邪をひくタイプになりました。その経験から、今では体脂肪が低い人を見ると、心配になりますね。」

「免疫力が落ちて、風邪をひきやすくなったんですね。栄養士の今があるという意味では、結果的にそれはとても良い経験をしましたね。若い女性のダイエットなどは、結局そういう危険性があるいう事ですものね。頭ではわかっていても、なかなか理解できないものです。」

「体調をよく崩すようになり、皮膚も脂がなくて乾燥してきて、さすがに親からも『ダイエットをやめなさい』と言われ、病院にずっと通ってました。」

「病院に行ったのは、食べられなくなったから?」

「違います。体重が減るのが喜びだったので、食べろと言われたら食べられるのに我慢していただけ。それで体重が1~2kg増えるのがすごく…。」

「怖くなるのね。」

「そうですね。拒食症みたいな感じだったので。でも体調を崩し、食べないとパフォーマンスどころか命が危険になってきて、食べるよう説得されました。それに気づいたのが高2の冬。食べたら体重も増えてきて、トレーニングして2、3ヶ月経った高3の春には体が少し変わってきたのが分かりました。最悪の状態からだったから変わるしかないのですが、筋肉がついた感じでパフォーマンスも下がりにくくなりました。食べる物を変えたり量を食べると筋肉や体力もついてきて、足も速くなり、その事にとても感動したのを覚えています。人って食べるもので変わるんだ、と。」

「管理栄養士になりたい!」熱い思いで専門学校へ

「高校生のときは、食事指導など受けていましたか?」

「受けていなかったです。普通の県立高校で、トレーナーはいなくて顧問のみでした。顧問が『練習終わりにおにぎり食べろよ』みたいな感じでした。」

「10年前位だと、そろそろスポーツ栄養学が広まりつつあったから、顧問の先生もそういう情報を得られていたのかも。」

「そうですね。どこかから入手されたのだと思います。試合前にゼリー飲料なども支給されたりしたので。でもそのころはとにかく食べろと言われて食べていただけでしたが、自分の体が食べるものによって変わってくるのを感じ、栄養の方も面白そうだなと思い始めました。進路を決める際、栄養関係に進みたいと考え、龍谷大学のスポーツサイエンスコースに通う事にしました。トレーニングも学べるし、栄養も河合美香先生という陸上の長距離をされている先生の研究室に入って学び、そこで本格的にスポーツ栄養の分野に触れました。高校生の時に正しい知識があれば、たとえば知識を持った指導者がいたらまた変わっていたのかなと思うと、それを必要としている人達にアドバイスをする人になりたいな、と。今はスポーツ栄養に関わる仕事ができて、自分の経験を生かしたいとすごく思います。」

「そういういきさつがあったとは、胸を打たれました。」

「大学卒業後は就職は考えておらず、栄養士の資格を取るか大学院に行くかですごく迷って。親は『まだ学校行くんかい!?』と驚いてましたが(笑)。『管理栄養士になりたい!』と頼み込んで、専門学校に進学させてもらいました。」

「ご両親は、松峯さんのとても熱い思い、意気込みを感じられたのでしょうね。」

「そうですね。場所を東京に移したのも、自分を変えたいというか、本気で挑みたいというのがあったので。関西にもそういう専門学校はもちろんありますが、スポーツ栄養に触れる機会が多いのはやっぱり関東、東京なんですよね。最先端の情報に触れたい、やるならとことんやりたいという思いで、同級生は高校卒業したばかりなので年齢差を感じながらも、覚悟を決めて上京しました。」

「そこでひさこ先生先生に出会ったんですね。松峯さんの意気込みは、先生も感じられましたか?」

「既卒は松峯君だけじゃなく他にもいましたが、やっぱりそういう人達の意識は高いなというのは感じましたね。確か大学卒業後、親御さんにお願いして無理して来たから、自分は着る物や色々なものをガマンするって言われていたのを覚えています。本当はおしゃれとか色々したい年頃なのに、自分で出来る限りの節約をしていたので、すごいなと思っていました。」

「そういう気持ちはありましたね。親に迷惑をかけないようにってすごく思っていました。家賃などはアルバイトをしながら。」

「アルバイトはやはり飲食関係ですか?」

「六本木にある有名人や一流のスポーツ選手が来るトレーニングジムに併設された、アスリート向けのメニューがあるカフェがあり、そこの厨房(ちゅうぼう)で料理を担当していました。スポーツ栄養に興味のある方が集まってくるお店で、働きながら学ばせてもらって得るものが多かったです。1日1日をムダにしたくない、出来る経験は何でもしたい。セミナーにも出たり、そういう世界のつながりを大事にしたいと思いました。」

「友達がないところから、新しい人脈作りですね。」

「そうですね。人とのつながりも、情報を得るところも何もないところからスタートしたので、色々なところに出来るだけ顔を出して、人脈を広げようとしていました。ひさこ先生にもそのころからお世話になり、色々わかりやすく教えていただき、アドバイスをいただきました。」

取材日:2017年12月15日

選手&チームのご紹介

松峯敏和(まつみね としかず)

管理栄養士、健康運動指導士
所属:シダックスフードサービス株式会社(管理栄養士として高齢者施設にて勤務)  2016年リオ・オリンピック、パラリンピックでは、日本選手に向けたハイパフォーマンスサポート・センターで調理を担当。
奈良県出身。龍谷大学 経済学部現代経済学科スポーツサイエンスコース卒業後、関東に上京し、専門学校に2年間在学、卒業し、現シダックスフードサービス株式会社に入社。実務経験を経て管理栄養士免許を取得。関東や関西などでスポーツ選手をはじめ、高齢者の方や子供達への栄養指導や食事を提供。普段は高齢者の方々や子供達への食事提供をメインに、『調理からの栄養指導』をコンセプトに普段の食事から栄養について興味を持ってもらう事を大切に活動している。スポーツ栄養サポート経験としては、高校男子ラグビー部、社会人女子ラクロス、中学生バドミントン部など。